その手でつかんだ光 (乃木坂46・北野日奈子の“3320日”とそれから)[1]

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[タイトル写真:北海道小樽市・小樽運河(みにも/photoAC)]

はじめに

もしかしてですけど、将来のことも見据えていたりするんですか?

「同期で同い年の未央奈が卒業したので、自分の将来を考えないと言ったら嘘になります。でも、私って意外と自分の将来に対する不安がないんですよ(笑)。どうしてかって、どんなに大変な状況になっても、それを克服するためには“乗り越える”しか方法はないと思っているから」。

 “逃げる”とか“別の道筋を探す”ではなく、“乗り越える”しかない?

「はい。私は、とにかく“乗り越える”一択です(笑)。試練があったら、ちゃんとそれを乗り越える努力をして、その努力がしっかり積み重なっていけば、いつかは試練を乗り越えられる時がくる。そう信じています。」

(『B.L.T.』2021年8月号 p.113)

 2022年4月30日。この日をもって、乃木坂46・北野日奈子がグループを卒業した。卒業が発表されたのは、2022年1月31日の夜。この日に更新されたブログによれば、「優しくて温かいこの場所を離れることを決めたのは去年の今頃です。(北野日奈子公式ブログ 2022年1月31日「希望の方角」)ということであった。「去年の今頃」というのは、いくぶんかは幅のある表現ではあるが、1年前の2021年1月末がどのような時期だったかを思い返してみると、26thシングル「僕は僕を好きになる」が1月27日に発売されていた、というくらいのタイミングである。1月21日には「9th YEAR BIRTHDAY LIVE」の開催(無観客・配信ライブかつ、前夜祭および当日1公演+後日の各期別のライブ4公演として)が発表され、メンバーは準備を始めるくらいの頃だったであろうか。堀未央奈が卒業を発表していた状態で、2期生はまだ8人グループに在籍していた。現役のメンバーは、いわゆる「新4期生」までで計44人だった。

 その頃に筆者が書いた記事が「白いガーベラの咲く星(乃木坂46・北野日奈子と「アンダー」の現在)」であった。それ以前にも、それこそアンダーライブ九州シリーズや「アンダー」の頃から、北野については何かあるたびに書き続けてきたところだが、特につぶさに書くように書くようになったのはこのときからである。その後、北野の25歳の誕生日(2021年7月17日)によせて「変わりゆくもの、変わらないもの(北野日奈子・25歳の誕生日によせて)」も公開している。北野日奈子がグループを卒業するという大きな区切りによせて、もう一度彼女について書いておきたい。自分の見てきた「乃木坂46・北野日奈子」を、感謝を込めて文章に残しておきたい。そう思って、筆をとったものである。

 記事のタイトルには「乃木坂46・北野日奈子の“3320日”」1と掲げたが、これはその“3320日”について、すべてを順繰りに時系列的に、もしくは意識して網羅的に振り返るということを意味しない。現在の北野について見ていくと、彼女のメンバーとしてのキャリア全体が見えてくる、というような意味であるととらえていただきたいと考えている。

 北野は卒業発表翌日のモバイルメールで、「卒業」を心に秘めた状態で活動していた日々について、隠しごとをしていたようだった、自分だけが「カウントダウン」をしていたようで寂しかった、という趣旨の発信をしていた。本稿では、その「カウントダウン」が始まった時期を、卒業を決意した時期とした2021年1月末ごろであると仮に定め、このときから卒業に至るまでの北野の歩みをなぞりながら、「乃木坂46・北野日奈子」の歩み全体を振り返っていくことにしたい。

(「乃木坂46・北野日奈子」については、この記事において書き終えるつもりでいる。これまで書いてきたこととの重複もあれば、端折るのが惜しくて書きこむがゆえに長くなってしまう部分もあると思うが、ご容赦いただきたい。)

「その手でつかんだ光 (乃木坂46・北野日奈子の“3320日”とそれから)」目次

 ・[1]家族への信頼と愛情
 ・[2]ポジションと向き合った日々
 ・[3]同期・2期生という存在
 ・[4]“先輩”と“後輩”、グループのなかでの役割
 ・[5]「希望の方角」と「忘れないといいな」
 ・[6]あの夏のこと/アンダー曲「アンダー」
 ・[7] “代名詞”となった「日常」
 ・[8]「乃木坂46 北野日奈子 卒業コンサート」
 ・[9]中元日芽香、「大切な友達」として
 ・[ex]グループを離れてから

 

[1]家族への信頼と愛情

 北野日奈子という人物の特徴や性格を考えたとき、どのようなことが思い浮かぶだろうか。元気で素直。少し不器用だけど実直。家族や仲間への愛が深い。動物好き。いろいろと思いつくところはあるが、グループでの約9年間を経て、芸能活動10年目を迎えた北野の歩みをなぞっていくと、彼女のそうしたパブリックイメージがどこまでも反映された道を歩んできたように、ひとりのファンとしては思える部分が大きい。

 本稿では、北野のグループ活動そのものについて書いていく前に、まずは公に語られている彼女のプロフィールや加入前のこと、家族のことなどについて改めて振り返っていくことにする。

「北海道出身・千葉県育ち」

 最初に少し、北野の生い立ちについて振り返っておきたい。1996年7月17日、祖父母の住む北海道小樽市で生まれ(本籍は札幌市にあるらしい)、ほどなくして千葉県に移った。3人兄妹の2番目で、兄と妹がいる。母親は看護師で、父親は(おそらく)会社員。兄も妹もいわゆる一般人。兄とは少し年齢が離れており、現在30歳になるくらいだという。妹はふたつ下で、現在は母親と同様、看護師になっている(以上は「レコメン!」[2022年2月9日]での発言を参考にした)

 出生地である北海道への愛着を表明することが多かった印象のある北野だが、育った場所であり、いまも暮らしているという千葉県への愛情も深い2。埼玉県出身の同期・新内眞衣とのありがちな言い争い(埼玉には新幹線が通るが千葉には国際空港があるとか、そういう類のもの)や、同じく千葉県出身で実家も近いという後輩・柴田柚菜との関係など、千葉にまつわるエピソードも数々あるが、いわゆる「千葉仕事」として、かつては京成電鉄の広報誌でインタビューを受けたこともある。

——北海道のお生まれですが、幼い頃、千葉県に初めて来たときの思い出は?

空気がすごく暖かった(原文ママ)ことを憶えています。9月だったんですけれど、北海道のように突き刺さる感じではなく、空気が柔らかいなという第一印象でした。

——京成線にはよく乗っていたのですか?

そうですね。東京に出掛けるよりも京成線沿線の街のほうが親しみがあります。どれだけまわりの環境が変わっても、京成線だけはいつまでも昔のままの雰囲気なんですよね。私のなかでは、京成線は小学生の頃から慣れ親しんできた大切な存在なんです。
『京成らいん』2016年3月号 p.6)

 おそらく20歳を過ぎたくらいのタイミングから、しばらく東京でひとり暮らしをしていたが、現在は家族のいる実家に戻り、再び千葉県民となっている。ひとり暮らしの期間は「2〜3年」だったとのことである(行き来は頻繁にあったであろうから、ひとりのファンとしてうかがい知る限りでは、そこまで長いような気はしていなかった)。

——北野さんは家族思いで知られています。今も実家に暮らしているんですよね。
北野 一人暮らしをしていた時期も2〜3年あったけど、家族と過ごすことが好きなんです。25歳になって、まだ人生は半分以上残っているけど、家族と過ごす時間って限られてくるじゃないですか。そう考えると、後悔をしたくないなと思ったから実家に戻りました。……(中略)……まだ両親ともに50代ではあるけど、なんでもない普通の一日を家族と過ごしたいなと思っています。

(『希望の方角』北野日奈子インタビュー)

 ここからは、その“家族”にフォーカスして、北野のパーソナリティを見返してみたいと思う。

「異常なまでに仲が良い」家族

 改めて語るまでもないとさえ思うが、家族仲は非常に良い。「ピクニックといえば、毎年家族でお弁当を持ってお花見に行くのが定番。(『Zipper』2016 SPRING p.107)、「家族みんな体を動かすのが好きなので、BBQに行ったら近くのテニスコートを借りてみんなでテニスをしたり、こないだも気分転換にみんなでスポーツ施設に行きました。(『Zipper』2017 AUTUMN p.67)など、家族でのエピソードが本当に常時出てきていたという印象が強い。

——ブログなどを見ていると、北野さんは異常なまでにご家族と仲が良い印象を受けます。
北野 仲良しです!
——家族でカラオケに行ったりもするんですか?
北野 カラオケも行きますし、モノポリー、人狼ゲーム、人生ゲームとかいろんなゲームで遊びます。何日か遊び続けるとみんなちょっとめんどくさくなるんですけど、私はどんどん楽しくなるんです。5日連続の5日目とかは「お願い! 人狼ゲームやってやって〜!」って(笑)。

(『BUBKA』2016年5月号 p.61

 家族と仲が良く、夏になると毎年決まって一緒に行く場所があったという北野日奈子さん。
「家族でプールに行って、その後近くの海に入るんです。最近は行けてないけど、中学のときは家族と予定を合わせて行きました」
 仲良しぶりは健在で、いまでも2か月に一回は家族でBBQをするとか。

(『真夏の全国ツアー2018 公式SPECIAL BOOK an・an 特別編集』[2018年7月23日発売] p.79)

 極めつきは、北野が大きく特集された『OVERTURE』No.008[2016年9月17日発売]においては、北野自身がインタビューで家族について語ったのみでなく、家族全員(両親と兄、妹)からそれぞれエピソードが寄せられている。グループアイドルはえてして家族からアンケートがとられたり、あるいは家族にメッセージを送ったりする機会が設けられるものだが、ここまで家族が個別かつ網羅的に取り上げられる(そして、家族がそれに応じる)ケースはレアだといえるのではないだろうか。

——北野家は異常に仲がいいですよね。
お母さんが「こんなにいいお父さんいないよ」と褒めるくらい、休みのたびにどこかに連れて行ってくれるんです。春になったらお花見をして、運動会があれば大きいお弁当箱とたくさんのジュースを持ってきてくれて。
——いい家族ですね。
「人のふり見て我がふり直せ」とは言われたけど、しつけらしいしつけはなくて。こっちがヘソ曲げて聞かないというのもあるんですけど(笑)。私のことを尊重して自由に育ててくれました。……(後略)

(『OVERTURE』No.008 p.45)

「壮絶な青春時代」

 その『OVERTURE』No.008では、グループ加入前の北野のことについても、写真とともに彼女のことばで語られている。「壮絶な青春時代」「理不尽な世界」と小見出しをつけられたそのページでは、元気な幼少期のエピソードとともに、小学3年生から乃木坂46のオーディションを受けた時期に至るまで、いじめを受け続けてきたことが綴られた。北野の明るいキャラクターからはあまり想像がつかないエピソードだったかもしれないが、5年以上が経ったのち、卒業発表を経て発売された2nd写真集『希望の方角』のインタビューでも、改めてほぼ重なるエピソードが語られている。

——当時はどんな高校生でしたか?
北野 ちょっと強めのいじめが中学時代にあって、担任の先生と両親が相談した結果、私立の高校に入ることになったんです。そこだったら、いじめもないだろうって。その高校は母の勤め先が目の前にあったこともあって、私も安心できる環境でした。でも、1年生の中盤あたりから、またいじめが始まりました。……(後略)

(『希望の方角』北野日奈子インタビュー)

 いじめの対象となっていた理由として、北野自身は「へこたれないのが反感を買っていたんでしょうね(『OVERTURE』No.008 p.46)と分析しており、中学2年のときにいじめられている子をかばったことでいじめられるようになったことについては、「そうなることはわかっていたけど、当時は正義感が強かったんです(同)とも語る。いじめは人間の心身と尊厳を傷つけ損なう、認容する余地のない犯罪行為であることは言うまでもないし、北野が学生時代を過ごした2000年代半ば以降には、いじめに対するそのような認識も一定程度社会に定着していた一方、その裏で起きるいじめは陰湿さを増し、それがときに組織ぐるみでの明らかな隠蔽の対象ともなることが問題になっていた時期であっただろうか。SNS全盛の現代からはまだずいぶん離れていて、自宅に戻れば一定程度は守られる一方、日々感じる閉塞感はよりいっそう絶望的であったかもしれない。

(前略)……いじめられっ子だったので、親は私を否定しないようにしてくれたんです。「日奈子は日奈子らしくすればいいんだよ」「嫌なら学校に行かなくてもいいよ」って。私がネガティブな話をしても、お母さんは「気にしない、気にしない」と返してくれる。もし、「先生に相談しよう」と言われたら私は縮こまっていたと思うけど、お母さんの軽やかな対応で、「ツラくないのかもしれない」と思えたんです。ただ、夜中にお父さんとお母さんの会話が聞こえた時、「私がいじめられることで家族もツラくなるんだ」と知って。この状況をなんとかしなきゃと思うようになったんです。一方で、人の目が気になるようにもなって。それは今も続いてますね。

(『OVERTURE』No.008 p.45)

 掘り起こすのも辛い記憶だろうし、あえて語ることにメリットはないようにも思えるが、それでも北野がそうしたエピソードを語ってきたことには理由がある。「乃木坂46・北野日奈子」の出生の秘密とでもいおうか、乃木坂46の2期生オーディションを受けたことそのものが、こうしたいじめの経験と密接に結びついているのである。

 北野のオーディション応募にまつわるエピソードとしては、「友達に応募を勧められたものの親の反対を受けてやめたはずが、諦めて捨てたはずの応募書類をその友達が送って一次選考を通過した」というところで、これに対しては「当時のメジャーアイドルにありがちなエピソード」のような印象を抱くが3、「親の反対」の背景には「『そんな目立つようなことをしたら、いじめられるからやめなさい』と言われました。(『希望の方角』北野日奈子インタビュー)という当時の北野の状況があり、一方で一次審査を通過したあとで続く選考に参加していくにあたっては「乃木坂46のオーディションを受けた理由として、『こんな狭い世界は嫌だ』という思いもありました。(『OVERTURE』No.008 p.46)という心情が彼女を突き動かした。

対照的な性格の両親のあいだで

 そうした背景や経緯のもとでオーディションを進んでいくことになる北野だが、両親の反応は対照的であったという。前述の「親の反対」は主に母親からのもので、父親はトーンが異なっていたように語られている。

——でも、乃木坂46に入ることに最初は反対されたんですよね。
私が捨てたはずの応募用紙を友達が拾って書き直して1次審査を通ったんですけど、通知が届いた時はめっちゃ怒られて。お母さんとしては「目立つことしていじめの対象になったり、わざわざ傷つくことをしなくていいんじゃないか」という想いがあったみたいです。お父さんはバンドをやっていたのでスポットライトを浴びる仕事に就くことに否定的じゃなかったし、お兄ちゃんは「すげー」と言ってたけど(笑)。結局、お母さんは「社会科見学だと思って」と背中を押してくれたけど、通過するたびに「やめる?やめる?」と確認してきました。

(『OVERTURE』No.008 p.45)

 オーディションの過程が語られたエピソードにおいても、前のめりだった父親の姿勢がたびたび紹介されてきた(以下とほぼ重なる内容が『希望の方角』でも述べられている)。

——番組で披露したフライパン曲げで“怪力”のイメージが定着しましたね。
 そうですね(笑)。もともとのきっかけは、オーディションの自己PRなんです。私は歌もダンスも習ったことがなくて、はっきり言うと“何もできないコ”でした。だから、なかなか自己PRもうまくできなくて。悩んでいるとき、父が「雑誌でも破ってみれば?」と提案してくれたんです(笑)。ちょっとヘンだと思いましたが、必死で練習して…。気づいたらできるようになって、無事にオーディションにも受かりました。“怪力”というイメージがついてしまいましたけど(笑)。いまでは“フライパン曲げ”までできるように。

(『FLASHスペシャルグラビアBEST』2015年秋号[2015年10月23日発売]p.120

 家族の仲がよいエピソードは数ある一方で、全員が似た者の一家でというわけではなかったというのがうかがい知れることも多かった。そこまではっきりと語られたわけではなかったように思うが、ものごとに対する反応としては両親で違いがあり、もっといえば父親と兄の男性陣と、母親と妹の女性陣になんとなく分かれていて、北野がその真ん中にいる、という印象をもったことがよくあった。その最たるものが、北野のグループ卒業に対する反応であった。

——卒業することは親御さんにはどのように伝えたんですか?
北野 お父さんとお兄ちゃんは卒業を惜しんでいます。私のことを周りに自慢するタイプなので(笑)。父は私の将来を心配しながらも、「乃木坂46にはいられるだけいればいいじゃん」と言っています。父はライブにも来てくれるんですけど、「日奈子が出てきた瞬間、会場が華やかになる」なんて言うんです。父がお気に入りの曲は、だいたい私が入ってる曲だし(笑)。
 一方の母は、私が卒業を決めてからは会場に来なくなりました。たぶん、観るのがつらいんだと思います。父とは正反対のタイプなんですよね。……(後略)

(『希望の方角』北野日奈子インタビュー)

 「正反対のタイプ」である両親のもと、3人きょうだいの中間子として生まれ、「家族」と「家庭」を揺るぎないあたたかな拠点として育ち、いまもそこに身を置いている。そんな北野の、ファンとしてうかがい知れる限りの生い立ちからすると、少し人見知りをしながらも、グループの2期生として先輩と後輩のあいだで過ごしてきた彼女の立ち位置や、さまざまな立場や背景をもつ人々に温度感をあわせる独特の力、そして何より同期やグループに対する愛情の深さはすごく自然だ。

 正義感が強いのもずっと変わらないし、「思ったことを口に出す」ようなところも、成長とともに形を変えながら、ベースとしてはずっと残っているように感じる。「仕事」の外での北野については、ここまで引いてきたような記事を中心に読んできたことからなんとなくのイメージはあったものの、今回まとめて再度振り返ってみて、どこまでも彼女の生きてきた延長線上に「乃木坂46・北野日奈子」があったように感じられ、改めて新鮮な驚きがあった。手垢のついた言い方になるが、彼女の「芯」の部分とでもいおうか。成長した部分も、不安定だった部分も、外形的には状況や姿勢が大きく変わった部分もあって、だけどそれでも、ある程度長く彼女を応援してこられたのは、その「芯」が変わらないままあったからだったかもしれない。

家族のみんな
どんな私でも受け止めてくれたこと感謝しています。お仕事のことでたくさん協力してくれたお父さんとお兄ちゃん。どんな時も、私の声に心に寄り添い続けてくれたお母さんと妹。日奈子と同じだけ、もしかしたら日奈子以上に頑張ってきた9年間だったと思います。私のことで心を痛めたこともたくさんあったと思います。恩返しはまだできてないけれど、これからも真っ直ぐに日奈子らしく頑張るからね。大切にしてくれてありがとう。

(北野日奈子公式ブログ 2022年4月30日「乃木坂46」)

愛犬・チップと動物愛

 記事の構成上、ここまではあえて触れてこなかったのだが、北野にとって大切な“家族”には、愛犬・チップも当然含まれる。サインを書く場面や、手描きのイラストをグッズにあしらう場面など、北野はずっと、あのシンプルなチップのイラストを描き続けてきた。ブログをはじめ、いろいろな場面でチップについて触れることも多く、「北野といえばチップ」とさえいえるほど、彼女のひとつの代名詞的な存在であり続けている。

 北野はもともと大の動物好きで、ペットとしても、小さい頃にハムスターを飼っていたことがあったのだという。チップとの出会いは小学4年生、10歳の頃。動物愛護センターで出会った、生後3か月ほどの保護犬であった。そこから一緒に成長し、人生をともに歩んでいくうちに、かけがえのない家族にとどまらず、ときには「人生で一番影響を与えられた」存在として挙げるほどにまで大切にしてきた。

(Q 人生でいちばん影響を与えられたものは?)チップ(愛犬)! 落ち込んでいるときも、楽しいときも、そこに居てくれるだけで嬉しいし安らぐ、チップが与える私への影響力は半端ないです! チップが元気がなさそうだと、一日もう身が入らなくて……(涙目)!

(『月刊エンタメ』2017年5月号 p.15)

 動物好きは乃木坂46のメンバーとなってからも一貫しており、「もっと演技がうまくなって、いつか女優さんになりたい。もうひとつの夢は、動物関係のお仕事につくことです。(『Audition』2015年9月号 p.85)、「動物好きなので動物番組とか、動物愛護のボランティア活動のような動物に関わる活動がしたい(『FLASHスペシャル グラビアBEST』2016年秋号[2016年10月7日発売]p.30)と、アイドルとしてのいわゆる「お仕事」の内でも外でも動物にかかわっていきたい、と表明し続けているし、実際にボランティア活動に参加したりもしていたようである。そしてもちろん、単に愛玩する気持ちだけではなく、動物愛護という観点からは、大きな夢とともに厳しいまなざしももちつづけている。

 それ以外は、犬が大好きなので、殺処分の犬をゼロにする活動に興味があります。施設を作って保健所に収容された犬を引き取りたいと思っています。トリマーの資格をとって、犬を綺麗にしてあげたり、病気にかかってたらちゃんと治るように面倒をみてあげたりして、ゆくゆくは里親を見つけてあげたいです。せっかくアイドルになって、たくさんの人に声を届けられるようになったと思うので、それを活かして1匹でも多くの犬を幸せにしたいと考えています。

(『空気の色』 北野日奈子インタビュー)

北野 私は大好きな動物に関することを、もっと押し出していきたくて。
新内 絶対にやるべき! 昔から言ってるもんね。
北野 動物愛護の分野に携わっていきたくて。昔から動物支援のボランティアに参加しているんだけど、もっと積極的に動物のための活動をやっていきたいんだよね。でも、知識もないただの“好き”だけじゃ迷惑になるし、動物のためと言っても説得力が全然ないと思っていて。だから今、いろいろ勉強中なの。
井上 すごい! 愛が深いね。
北野 むしろ深すぎて、飼っていたハムスターが死んだときなんて、収録本番3秒前まで号泣していたこともあって(苦笑)。でも、それくらい大好きで。世間が目を背けたくなるような動物たちの置かれた悲しい環境をちゃんと伝えて、助かる命を増やしていきたい。乃木坂46の名前を借りて、動物を助けよう! というのが私の魂胆にあったり(笑)。……そういえば、小4の頃に『どうぶつ奇想天外!』に出演したことを思いだした。ちょうど、チップを動物愛護センターにもらいに行った時に、取材が来て。

(『月刊エンタメ』2017年5月号 p.16-17)

 また、このときのハムスターは「きみ」と「しろみ」。アンダーメンバーから選抜メンバーに移り、走り続けていた2016年ごろの北野を支えた存在であったが、その年の秋に相次いで亡くなってしまったという経緯があった(北野日奈子公式ブログ 2016年11月7日「きみ」、2016年11月8日「しろみ」)。精神的な打撃はやはりかなり大きかった様子だったと記憶しているが、これも動物への愛情と、生命への理解と親しみをさらに深めた出来事だったかもしれない。

 その後、乃木坂46のメンバーとしては、表だって動物関係の仕事をする機会はあまり多くなかったが、そのなかで2020年には、朝日新聞社運営のペットメディア「sippo」でチップおよび動物愛護を切り口としたインタビューを受けたことがあった。

 とはいえ、北野さんのブログにも頻繁に登場するチップは、ファンの間でも人気者に。グッズのモチーフにチップを使うことも多く、「“きいちゃん”といえばチップ」という認識も広まっていきます。そしてときには、愛くるしいチップの姿に魅せられたメンバーから、「私も飼いたい」と相談を受けることも。

 ところが、「いいじゃん、犬かわいいよ! 飼いなよ!とは言いません」と、北野さんからのアドバイスは、シリアスなことが多いそう。

「犬はかわいいけれど、かわいいから飼うのではなく、家族の一員として15~16年間、最後まで面倒を見てあげられるかが大切と言っています。若くて活発な時期に、どれだけ一緒にいてその子に思い出を作ってあげられるか、また犬は生涯の半分以上がシニア期といわれていますが、そうして老いてしまった子にも、ちゃんと愛情を注ぎ続けられるか。『それをするのって、結構大変だよ』ということは伝えています」
(sippo「乃木坂46 北野日奈子さん 私に夢をくれた、愛犬チップとの14年」[2020年8月31日公開])

 このインタビューでは、家族ぐるみでチップをはじめとする動物に愛をもって接してきたことや、保護犬を迎えるという選択そのものも、かつて保護犬を飼っていた経験のあった母親の考えがあったということについても触れられている。加えて、この年の10月1日に14歳となったチップがクッシング症候群を発症し、併発した糖尿病によって両目を失明してしまったことについても明かされた。

 声をかけると振り向いてくれるなど、以前と変わらない反応を見せますが、もうその目に自分が映ってないと思うと悲しくなってしまうという北野さん。けれど、チップの病気をきっかけに、家族の絆はますます強くなっているといいます。

「なるべくお留守番をさせないよう、私もオフの日はできるだけチップといるようにしていますし、学生の妹も、学校が終わるとどこにも寄らず、真っすぐ家に帰ってきてくれます」

 新型コロナウイルスの影響で仕事が休みになることが多かったというこの春、チップと過ごす時間が増えたことで、「(仕事が忙しくて)一時期下がっていたチップの中の私の順位も、以前のポジションに復活したみたいです」と、うれしそう。

 目が見えなくなった不安からか、室内でおしっこをしなくなってしまったチップのために、家族全員が交代で外に連れ出すといったこともしているそう。

(sippo「乃木坂46 北野日奈子さん 愛犬「チップ」の発病、そして夢への第一歩」[2020年9月7日公開])

 老犬となったチップの姿から動物介護士の資格取得という身近な目標を見つけた北野は、その先にある「生涯をかけて追い続けたい夢」として、改めて動物愛護への思いについても空かした。

 けれど、入学する高校を決めるときや乃木坂46に加入するときでさえ、誰かの助言やサポートがあったこれまでの人生の中で、唯一、自分一人でできたのが「動物愛護の立場に立とう」という決断だったのだとか。

「たくさんの分かれ道の中から今に至る選択をしてきたけれど、『自分で運命を切りひらいてきた』という実感はあまり持てずにいました。だからこそ、小学生の頃からずっと考えている動物愛護については、何があろうとめげずに、自分でその道を作っていきたいと思えるんです」

(sippo「乃木坂46 北野日奈子さん 愛犬「チップ」の発病、そして夢への第一歩」[2020年9月7日公開])

 ただ、グループアイドルとしての活動をしているなかでは、「いろいろな考えの方も、いろいろな立場の方もいる中で私が発信していくには、言葉選びも難しいですし、乃木坂のメンバーとしての顔もあります。」とし、「命の重さはみんな同じで平等だということを伝え続けることで、なにか少しでも変えられることがあるならうれしい。(同上)とも語るなど、もどかしさというと過剰かもしれないが、目標の遠大さを感じさせるインタビューでもあったように思う。あれから2年近くが経ち、グループを卒業することで立場もいくぶん変化した北野が、その決断でまたもう少しでも、夢への道を進んでいてくれればいいなと思う。

私の可愛いチップちゃん!お姉ちゃんのアイドル人生はどう見えていたのかな、一緒に過ごす時間が減ってしまったこと寂しかったかな。チップもたくさんの人に愛されているんだよ!嬉しいね、感謝だね!言葉はなくても、心に寄り添ってくれているって伝わっているよ。支えてくれてありがとう。だいすきよチップ!

(北野日奈子公式ブログ 2022年4月30日「乃木坂46」)

 


 

 ここまで、北野日奈子のバックグラウンドとしての「家族」についてまとめて振り返ってきた。アイドルを追い続けていると、パッケージやキャラクターを超えた先にある「人間」が透けて見えてくる。それが活躍にダイレクトに結びついていく場面も多々あり、そのこと自体にすごく魅せられて筆者はここまでファンをやってきたし、このような記事を書いているのだと思う。プライベートごと人格を投入し、時にはそれを切り売りしてまで「商売」をする(もしくは、させられる)ことには是非があろうし、筆者自身も少しの迷いや痛みがある部分であるが、北野はそうした側面すら肯定しながら卒業していったように見えた。

 次回以降は(ようやく?)グループ活動そのものについての話題となる。次回の記事では「ポジション」をテーマに、北野の歩みとたたずまいを振り返っていくことにする。

 

 

 

  1. 「3320日」は、北野本人のカウントによる(北野日奈子Instagram 2022年4月1日)。オーディション合格の2013年3月28日から在籍最終日である2022年4月30日を期間にとり、初日不算入の形でカウントしていると推察される。
  2. 「千葉県出身」としてデビューするも、最初のブログですでに「北海道出身〝道産子〟千葉県育ち!」(乃木坂46 研究生 公式ブログ 2013年7月2日「はじめましてっ!わ ーい♪01」)とするなど、自分の裁量で言及できる場面では「北海道出身」または「北海道生まれ・千葉県育ち」とする場面も当初よりあったように見受けられる。各媒体では徐々に「北海道生まれ」などとされる場面も多くなっていったが、現在に至るまで単に「千葉県出身」とするものとないまぜになっている印象がある。
  3. 書面での応募というところに時代感があるし、スマートフォンから本人が応募、という形が定着した現在にあっては、「友達/家族が勝手に応募」のようなエピソードが聞かれることもずいぶん減ったという感覚がある(特に調べていないので根拠はないが)。応募者の背中を押し、オーディションの射程を広げる役割は、グループの成長とともに、「友達と一緒に応募」を押し出すという形が代わって担うようになってきたといえるだろうか。

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